音楽という孤独な世界
なぜ「セッション」のラスト9分19秒は素晴らしいのか? 〜血とビートの殴り合い、恫喝の向こうの涙 - YU@Kの不定期村
音楽の「すごい」や「うまい」というのは、中々それをやった事が無い人には伝わらないものだ。分かり易く伝えるための数的データもない。孤独に狂った世界なのだ。
アルトサックスをやっていた叔父の影響で私は中学で吹奏楽部に入った。
手にした楽器はもちろんアルトサックス。
同時期に、小学生の弟が地域のサッカークラブに入った。
それをきっかけに両親もJリーグをよく見に行くようになり、そこから少し孤独を感じるようになった。
家族仲が悪いわけではなかった。
そうではないけれど、自分がどれだけ音楽を頑張っても両親は褒めてくれない。
私は家で新しく配られた楽譜を見ながら唸る。
そんなのはしょっちゅうだった。
今思えば「『分からない人は分からない世界』だからそれが普通だよね」と割り切れるけど、中学生には少し辛かったのを覚えている。
大学生の頃に入ったビッグバンドの繋がりで社会人となった今でも音楽を続けている。
両親に理解されない、友人にすごいと言われない、なんて要因は私から音楽を奪うには弱すぎだ。
誰にどう思われようと、音楽ってやっぱ最高だし。
そもそも私はあまり承認欲求がある方ではない。
自分が楽しければオッケーという、プレイヤーとして最悪な部類の人間だ。
社会人ビッグバンドに入れてもらったり、自分主導でカルテットを組んだり(これは大失敗する)、Incognitoのコピバンに乗ったり。
これらの活動は最高に楽しい。
圧倒的に知り合いが増えたし、練習後に昼からお酒を飲んだりなんてのはもうハッピーすぎて四季関係なく頭にヒマワリが咲いてもおかしくない。
そもそも周りにいる人達が自分と同じ性質であるということは本当に幸せなこと。
音楽の世界は『分からない人は分からない世界』だけど、その実は『分かる人は分かる世界』だ。
『孤独に狂った世界』なのは外側から見るからであって内にいる人間からすればそれは正常なんだから。
この「セッション」のラストの一連の展開。まずは師匠から弟子への復讐、そして弟子から師匠への復讐、力技で復讐を遂げる弟子、それを認める師匠。やがて、この「キャラバン」1曲の中で、どん底の状態からこの上ない高みにまで、2人の絆が構築されていく。